自分は苛められていたほうだ。
首謀者はヒエラルキーの上にいるヤンキー気質のクラスメートもいましたが、それよりも、そこそこ頭が良く、中流的で普通な子からのほうが頻繁でしたかね。
直接身体にダメージを食らわす的というより、ネチネチと陰湿なやつね。
まあ、辛いっちゃ辛いし、死のうと思ったことも複数回はあるが、そこまでの度胸と思い切りの良さは無かったことが幸いして、今こうしてかろうじて生きている。
苛めに関して、色々なことを色々な人が言うが、自分の考えはこうだ。
あれは動物の本能だ。
例えば、動物の世界でも体力の無い個体、毛色の変わった個体(文字通り白子とか)は兄弟からも疎まれて苛められると聞きます。
そのような個体は自然と淘汰され、残るのは身体の強い固体になるわけですね。
苛めって、人間が動物であった頃から内包されていた本能が、無慈悲な子供時代に突出した形で出てしまうものなのではないのか、そんなことを思ってしまいます。
自分に翻ってみると、自分としては他者と何か変わっていると思うことは少ないと思ってはいたが、他者から見ると何か感じるものがあったのであろう。
そうでなければ、小中高、専門学校とこうも何かしらの迫害を受けることは無かったと思う。
しかし、同じクラスでも苛めとはまた違う、差別を受ける生徒もいるもので。
所謂、障害を持つ生徒ですね。
自分が学生の頃は聴覚障害、軽度な知能障害を持つ生徒が各クラス数名割り当てられていたようです。
謎だったのは、そういう生徒は大概自分と隣に席を決められるんですよね。
先生からは目糞鼻糞と思われていたのかと個人的には達観していたのですが、うちの母親が教師に訪ねたところ、彼は障害者を差別しないからということが答えだったようです。
そりゃ苛められている身で、さらに弱いものを叩くようなブルーハーツの歌詞にあるようなことはしないわな。
ということで、自分にとっての学校生活というのは苛めをいかに掻い潜って、穏便に学校生活をやり過ごして卒業するか、そこに主眼を置いて生きていました。
今こうして生きているので、少なくとも自分の戦略は間違っていなかったのではないかと。