以前にも書いた昭和歌謡の話題にも絡む話だが、最近の歌の歌詞はキャッチーで耳障りもよく、さらに見事に韻を踏んだ歌詞が多い。

でも、それだけだ。

歌詞の中にある世界観をとうとうと述べるだけで、そこから聴き手が想像を膨らませる事が難しい。

仏を作って魂入れずみたいな(違うか?

そこらへんが昭和歌謡との違いか。

韻に関しては、ジャパニーズラップの白眉である近田さんが、氏の自伝の中で、日本語という言語には脚韻はあまり意味が無いみたいなことを書いていた。

それで、こういう風に作ったら、全部簡単に脚韻が踏めちゃうじゃんって作ったのが「Foo-Ei-Ho」らしい。

言われて聴けば、確かに。

そこらへん、韻が好きな国内のラップ好きの面々に、氏がイマイチ評価をされない一因なのかしら。

同じく、歌詞の韻で言うと、以前、音楽評論家のピーター・バラカン氏が松田聖子を嫌いな理由として、韻を踏んでいなくて聴いていて気持ちが悪いみたいな発言をしていた事を記憶している。

これも、たぶんではあるが、日本語ロックの始祖と担がれていたはっぴぃえんど出身の松本さんが、韻よりも意味を重視していたからなのでは?と自分は想像する。

たぶん、たぶんではあるが、詞ではなく詩のイメージなのでは。

そんなことを考えてしまう2022年の初秋。

いかがお過ごしでしょうか?

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